
セダムも普通の目線では、さほど美しい花だと思わない。人によってはそれこそ「しょぼい花」かもしれないのだが・・・ひざをつき花の近くに寄ってみれば、また違って見えるものだ。日差しを跳ね返しきいろく輝いている。こうしてみると緑のうつりこむ水面に浮かぶようでもある。それでも、こういった美しさというものはわかりやすい。
「きれい」とか「美しい」とかそういったものは、見る側の視点がどこを向いているのか、単にみるアングルや距離ではなく、その人が何をみているかによるのだろいう。だからこそ、使い古された道具が新品の道具よりも美しく見える人には見えるし、汚い道具としてしか認識しない人もいるのだろう。そこには、読み取る情報量に決定的な違いがあるように思われる。確かに絶対的なものの形としての「うっとり」するような美しさもあれば、表面的には時には、汚くさえ見えるようなもののなかに、内在する美しさというものもある。わたしは、それを見ることが大切だと思う。
世の中、美しい言葉や物で包まれた泥まんじゅうがたくさんあるのだから・・・